境内散歩


1.亀の水

表参道右側

枯れることのない霊泉で、“長寿の泉”と言われています。
霊泉を受ける手水鉢(ちょうずばち)は、享保4年(1719年)、常陸国(ひたちのくに)(現:茨城県)の人・飯塚宣政(のぶまさ)により寄進されたもので、亀形の吐水口(とすいこう)は、その年の12月に造られました。
手水鉢の傍らには、荷風の「断腸亭日乗」に「龜齢井と称する霊泉あり…清冷水の如し」と綴っている、この泉を訪れたときの印象を刻字した浄財箱を備えた亀の甲羅を模した六角の石柱があります。


2.山門

明石市指定文化財

秀吉が築いた伏見桃山城の薬医門(やくいもん)を明石城築城時に徳川秀忠より拝領し、切手門(きってもん)と称して城主の居所の正門であったものです。明石城の遺構として現存する数少ない建築物の一つです。
明治6年(1873年)これを譲り受け、以来、今も桃山時代の豪壮な風格を漂わせながら城址に向かって建っています。

山門前の石畳を挟んで、渦を刻んでだ庵治石の大きなベンチが据えられています。
座りにくいですが、山門の悠久の歴史を感じてみませんか。


3.子安千体地蔵尊

山門脇

小さな干体の地蔵尊があって、安産授子の霊験すこぶるあらたかで、おかげを受けた人は地蔵尊を一躰ずつ奉納します。


4.水子地蔵尊

山門脇

水子供養のために建立された地蔵尊で毎日お参りが絶えません。
たくさんの地蔵尊が雲に模した大きな石の上で鎮座しています。


5.人丸観音

山門内

山門内庭に洗心水の池があり、傍らに長崎平和祈念像の北村西望(せいぼう)作の人丸観世音菩薩の立像が佇(たたず)んでいます。
身丈2メートル10の尊像で、月照寺の鎮守神であります柿本人麿にちなんで「人丸観音」と名づけられた“洗心長寿の観世音さま”です。
この尊像は、檀家の(故)梅沢きよのさんの寄進によるものです。

荷風の「断腸亭日乗」の一節を刻んだ碑
明石名水「亀の水」をイメージした「亀はめ波」を表現しています。


6.ふれ愛観音

山門内

特に視力の弱い方にお救いの誓願をお持ちの観音さまです。
この尊像は、仏師で僧侶でもあります西村公朝(こうちょう)東京芸術大学名誉教授の作です。


7. 八つ房の梅
ー霊樹:素願成就の梅ー

本堂正面

元禄15年(1702年)の春、赤穂四十七士の一人間瀬久太夫正明が、頭領大石内蔵助良雄と共に素願成就を願って参詣したとき、携えていた鉢植えの梅が弱りかけていたこともあって、当寺に移植しました。一つの花に複数の実を付ける「八つ房の梅」です。
今も多くの実を結び、内蔵助と久太夫の素願の成就を体現しているこの「八つ房の梅」を『霊樹:素願成就の梅』と称しています。現在は三代目と四代目です。
また、四代目は、平成25年(2013年)12月、和人住職が経を唱え、曹洞宗泉岳寺の四十八基の義士の墓を前にして眠る主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の墓所に、幼木を対で納めています。久太夫の思いが遂げられるようにと、三百有余年のときを越えて旧東海道を巡り運んだもので、本堂正面の四代目と同様、確かに育っています。


8.壽祥松

本堂前

明石海峡からの風雨に耐え、淡路島を背に、伸びやかに枝が張り「」の姿に育った松があります。
「壽祥松(じゅしょうまつ)」と称して、“幸福長寿の松”です。
昭和40年(1965年)の台風23号により帆掛け船に模した2代目八つ房の梅が枯れたことを機に、本堂の前を石庭風に作庭したときに植樹した黒松です。


9.本堂・書院・庫院

総建坪400坪余。この地に移転以来370年余の風雪に耐え、桃山建築様式の遺構を伝えていましたが、平成7年(1995年)1月の阪神淡路大震災で全壊。3年後の平成10年(1998年)に再建。
屋根瓦の菊の御紋は、江戸末期の明和6年(1769年)から約100年間にわたって勅願寺として栄えた歴史を伝えています。
本堂は日本標準時子午線を上に建っています。


10.開山堂

本堂裏側

当寺開山安室春泰大和尚ほか歴代の住職をお祀りしている御堂です。


11.観音堂

本堂東側

昭和54年(1979年)再建。
人麿念持仏「海上波切船乗十一面観世音菩薩」を安置し、明石海峡を往来する船の海上安全を守っています。
この像は聖徳太子の御作、持統帝の念持仏で、人麿が帝(みかど)から賜ったものです。
波を切る船に乗った1.7メートルの観音立像で60年に1回開扉(かいひ)。平素は秘仏です。
観音堂の階段脇の石柱「海上/安全 船乘十一面観世音菩薩」は橋本海関筆です。


12.子午線大梵鐘

観音堂前

日本で唯一、東経135度・日本標準時子午線上に吊るされている重量830貫(約3.1トン)の梵鐘で、『子午線大梵鐘』と称しています。
梵鐘の下には、『子午線LEDライン』の光が、9時から17時の間15分ごとに、鐘楼の舞台を横切り、基壇(きだん)の前を流れ落ち、本堂に向かって走っています。
鐘楼前の参道の奥には、令和2年(2020年)の「時の記念日・制定100周年」に先立って建立した『子午線大梵鐘の由緒』等と梵鐘の鋳刻文を刻んだ石板(モノリス)が建っています。
現在の梵鐘と鐘楼は、昭和53年(1978年)に再建。梵鐘は、京都太秦(うずまさ)の岩澤宗徹が精魂こめて鋳造したもので、一撞(ひとつき)の余韻は3分半に及び海峡に響き渡ります。古(いにしえ)よりの梵鐘(480貫(1.8トン))は、昭和18年(1943年)の戦時供出によって失われました。

観音堂の階段横に据えている見晴台に立てば、「子午線標示柱(トンボの標柱)」を背に、鐘楼の舞台を走って基壇から流れ落ちる子午線LEDラインの全体が臨めます。

子午線大梵鐘の由緒碑「悠久のモノリス」(一枚岩)について
波状に磨かれた切断面は千年の刻(とき)悠久を表現しています。
釣鐘には第二次世界大戦戦時下、釣鐘の供出など幾多の歴史を重ねてきた事や航舟安穏などが刻印されている所から由緒碑の発想の波が原点になっています。
石板(モノリス)は波状に切断し、下石は釣鐘に鋳造されている由緒が、浮遊している上石は現在の子午線LEDの由来を刻んでいます。


13.柿本人麿の歌碑

山門前

ともしびの
 明石大門に入らむ日や
漕ぎ別れなむ
    家のあたりみず
       人 麿

万葉集の人麿の羇旅(きりょ)の一つ。
昭和47年(1972年)の人麿1250年祭の記念として建立したもので、明石在住の書家、(故)池内艸舟(そうしゅう)筆。
歌碑は、倭歌の意を表し、舟形の台座の舳先(へさき)を西方に向け、明石大門に見立てた山門より出でところに据えています。


14.田中千艸女の句碑

観音堂前

影清し
 月は明石の
  うらなれや
   千艸女

千艸女は国会議員田中源三郎の曽祖母。名は「ちい」で俳人。
句碑は明治30年(1897年)の建立です。