六月五日から六日にかけて一泊二日の「焼津全殊院参拝と岡崎散策の旅」に行ってきました。五日頃から梅雨入りすると言っていたが、五日は皆様の精進の賜か、晴天の空を仰ぎながら一路東海に向け名神高速道路を突っ走り、岡崎に昼頃到着しました。昼食の後、徳川家の菩提寺「浄土宗成道山松安院大樹寺」を参拝しました。家康が桶狭間の戦いで今川軍についていたため、信長に敗れ太田城から逃げ帰った場所です。大樹寺は松平家(徳川将軍家の祖)の菩提寺です。一四七五年松平四代の親忠が古戦場の首塚の近くに念仏堂を設けたのが始まりで、そこに寺を建てたのが大樹寺です。松平八代の墓、歴代将軍の位牌(将軍の身丈に併せている)家康七三歳の時の木像などが祀られています。家康が「予の遺体は九能山へ埋葬せよ、位牌は三河の大樹寺に安置せよ」と遺言しましたので、後幕臣は遺言に従い、位牌を大樹寺に納めました。代々の将軍についても同様に等身大の位牌を安置されています。因みに位牌の高さは凡そ一五〇センチですが、綱吉一二四センチ、家継(六歳で薨去)一三五センチで、綱吉は低身長、家継は高身長であったなどの説が存在します。 




  その後、名古屋名物の八丁味噌の工場を見学しました。確か岡崎では二軒の八丁味噌工場があったと思います。私は三回工場見学に行きました。二十年程前、どちらかの工場で味噌の掬い取りがあり、これを行って沢山の味噌をもらった記憶があります。確かに名古屋に行ったとき、味噌カツ丼、煮込みうどん、カキの土手鍋など食べた記憶があります。
 岡崎の参拝・見学を終えて、一路焼津に向かいました。焼津は、小学のころ修身で教わったヤマトタケルノミコトが東夷征伐の途中、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)で草を薙ぎ払い火をかけて賊を滅ぼした地名で有名です。この剣は三種の神器で本物は熱田神宮のご神体として祀られています。
 天叢雲剣は別名草薙の剣と称され、熱田神宮では正式名は草薙の剣です。因みにこの剣は須佐之男命が出雲で八岐大蛇を退治した剣でもあります。これが為、熱田の祭神が天照大神だと言われていますが、日本武尊とも言われています。宿泊のホテルは焼津黒潮温泉の「カンビア松風閣」です。このホテルは浴室や客室から富士山がよく見えることで有名です。幸い申訳のような富士山がうっすらと覗いていました。温泉は露天風呂で、内湯は沸かし湯となっています。しかし露天風呂はアルカリ性のいい風呂でした。
 翌六日早朝五時半に起床して、温泉に入りに行きました。とうとう梅雨となり雨が降っていて風流な入浴になりました。風呂から上がってバイキングの朝食を食べ、九時出発のバスに乗り込み、焼津の大樹寺参拝に向かった。
 当寺の千手大観音の像高は四・二メートル、仏頭一・八メートルの仕上がりは、実に七五〇年ぶりに大仏様式で日本一大きな千手観音です。月照寺住職の先導による「般若心経」の一同の誦経に続き大覚寺住職の大観音の説明・拝観のご案内により一同拝観しました。住職は大観音に三〇年の無病長寿を祈られるお話で、わが身に置き換えて考えるに、当年八二歳なればプラス三〇歳ではいくつになるのかとふと思いました。梅雨の最中一路焼津さかなセンターに行きました。魚町明石の市民としてはあまり珍しくなく、マグロ、ノドグロ、それらの干物など見学しながら、何も買わずに昼食の店へとバスで豊川に行きました。ちくわの店だけにそんな食事を頂き、一路明石へと帰路につきました。このバスツアーに参加して、バスガイドさんに感心しました。行きから帰りまでの通過する町の説明をしていたが、職業とはいえ、よくあれだけ多種多様な知識を勉強してと感心ずくめで帰ってきました。お陰で長い道中退屈せずに楽しい旅行ができました。
 今回初めて参加させて頂きましたが、住職と檀家が信仰を通して親睦を深めておられるのが、心温かいものを感じました。また来年もご一緒させて頂くことをお願いして筆を置きます。

明石市北朝霧丘   都 久俊






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