この木版画は1804年(文化元)に刊行された『播州名所巡覧図絵』(※注1)に「人丸」という表題で見開き全面で掲載されている木版画です。
 絵の中央左側には「月照寺」が記され、このページの前後の観光案内文の中には、月照寺は柿本人麻呂社の別当寺(※注2)であることや、明石城築城により現在地への移転となったことなども記されています。
 この「人丸」の絵図には、左側の中央には1709年(宝永6)に九代城主松平直明により再興された鐘楼堂も描かれ、東経一三五度の位置にある現在の鐘楼とほぼ同じ場所のように見受けられます。
※注一『播州名所巡覧図絵』とは、大阪から赤穂までの地名や旧跡の由来を書いた、当時の旅行案内です。
※注二 別当寺とは、専ら神仏習合が行われていた時代に、神社を管理するために置かれた寺院のことです。
 この名所巡覧図絵に描かれている柿本人麻呂社の社殿などは、当時、月照寺が管理しており、1971年(明治4)の神仏分離令により、月照寺より分離し、現在の柿本神社となっています。
 写真は、市立天文科学館より撮影した現在の月照寺と柿本神社の姿です。
 名所巡覧図絵の左側に描かれている当時の月照寺と見比べると、1873年(明治6)に移築した城主の居所の正門が山門として増え、大震災からよみがえった本堂などと相まって、曹洞宗の寺院としての荘厳な雄姿を醸し出しているように感じられないでしょうか。これも偏に幾代にわたる檀信徒の皆様の月照寺護持の賜物と感謝申し上げる次第であります。









 昨年の護持会が取り組んだ主な内容は、一昨年に続き、初代明石城主小笠原忠政を始め幾代もの城主との縁の深かった月照寺として、築城四百年の記念に、後世に残し続けていけるものとして実施したものです。
 それは、城主の居所の正門であった山門を挟んでの環境を整備し、当時の豪壮な雰囲気を醸し出せるようにするための事業です。
 一昨年の事業は山門の東側の環境整備で、本堂の前庭を巡っている参道沿いの結界を六方石の杭に変えての全面改修でした。
 昨年は山門の北西側一帯の環境整備で、写真にありますように、階段前の石畳に続いて、バリアフリーに配慮しながら、子安千体地蔵尊前まで大きな飛び石を配しながら、柿本人麻呂の歌碑周辺から永代供養墓前まで一面に石畳を敷き、全体として山門前広場のようになったと考えています。
 これにより、駐車場から山門前まで車イスも行けるようになり、千体地蔵尊や合祀墓にもお参りできるようになりました。
 なお、築城四百年記念としての一連の環境整備につきましては、昨年送付の『護持会-実績報告・事業計画等』にて申しましたように、檀信徒皆様のご理解により積み立てられてきた基金を活用して施工できたものであり、皆様の日頃よりのご尽力の賜物と感謝いたしています。



 この歌碑には「ともし火の明石大門にいらむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」と刻まれています。万葉集巻三に収められている柿本人麻呂の八首の覊旅歌(きりょか 旅に関する和歌)の一首で、官人人麻呂がわが家から遠く離れた西の地への赴任途中、明石海峡に差し掛かった時に詠んだものといわれています。
 この度の環境整備の一環で、和歌に詠われている状況を表わすため、歌碑の土台を舟形に変え、山門(明石大門)を背にして西方に向かって航行しているように据え直しました。
●歌碑について
昭和48年(1978)4月の柿本人麻呂千250年祭を記念に建立したもの 池内艸舟筆








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