初日の参拝は、別名「猫寺」の御誕生寺。猫の出迎えがあるかと思ったが、さにあらず。そのまま本堂に。太鼓と鉦の響く中、般若心経の読経。何がそうしたのか、皆さん大音声だった。当寺の老僧こそ、瑩山禅師の故郷に御誕生寺を建立された、元総持寺貫首の板橋禅師である。「一つの道を懸命に進むことこそ、賢い人生」だと、説かれた。軍人から僧侶の道を歩まれた人生経験から滲み出たお言葉、と受け止めた。
 翌日は、大本山永平寺の参拝である。法堂での先祖代々の供養である。60数名による修証義の声明は圧巻。堂内を全員が巡りながらの読経で荘厳そのもの。焼香が終わったところで、僧侶から「法堂から見る景色は、春は若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は銀世界へと移ろい、毎年繰り返している。人も先祖から引き継ぎ、子や孫へと繋いでいく。堂内を巡りながら読経したのは、そういう意味である」と諭された。なるほど、そうであったかと納得して永平寺を後にした。
 好天に恵まれ、心が満たされた旅であった。月照寺はじめ関係者の皆様に奉謝奉謝。
岩崎拓治

 



 幾度となく木製の賽銭箱が壊され皆様のお気持ちを無にするような事件があったことから石柱に変えました。石柱は亀の甲羅を模した六角柱で標柱を兼ねています。併せて文豪永井荷風の日記『断腸亭日乗』に書かれている「亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷氷の如し」。”亀の水“の感想も刻んでいます。刻字は書道家月華氏(月照寺護持会前会長網氏の御嬢さん)の書によるものです。

「亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷氷の如し」の出典部分の日記
断腸亭日乗(永井荷風)
 昭和20年6月初八、晴、午前7時警報あり姑くにして解除となる、朝飯を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出来ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らぱよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべき椅子もなし、乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘(=池の堤)の風致殊に愛すべし、石級を昇るに徃時の城楼石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所写真入の土産物を売る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁渋茶と共に甘いものもありますとて一碗を勧む、味ふに麦こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天主台の跡に立ち眼下に市街及江湾を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工塲の烟突林立せり、これが為既に12回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拝し林間の石径を上りまた下りて人丸神社に至る、石磴の麓に亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷氷の如し神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海湾の眺望城址の公園に劣らず、石級を下り電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、麦もまた熟したり、正午過寺に帰る、食後寺の女主人また苺を馳走せらる、午後菅原君と楼上に蔵する先代住職の書冊を見る、多くは皆現代出版の文芸書類なり、頗奇異の思をなす。





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