月照寺の”梵鐘“は、昔から国土安穏、万民豊楽、海上安全の祈願を込めて打ち鳴らされ、明石では、海を渡り、”時“を告げる鐘として広く知られていた。
 この梵鐘は1943年(昭和18)に戦時供出によって失われたが、1978年(昭和53)に重量830貫(3.1t強)の大梵鐘としてよみがえり、日本標準時・東経135度子午線上に吊り下げられている。
 大梵鐘は”子午線大梵鐘“と称し、国土安穏、万民豊楽など、昔よりの祈願を込めながら”今の時“を刻み続けている。
 このように”子午線上の大梵鐘“となったのは、平安前期の811年(弘仁2)に創建の”湖南山楊柳寺“(後に月照寺へ改称)という一寺に、1200年程の”時間“の中で五つの不思議な禍福の出来事が重層的にもたらした結果である。これらを年代順に辿っていくと。

一つ目の不思議
一つ目の不思議は、明石の岡”赤松山“を”楊柳寺“創建の地としたことである。
当時の明石(赤石)は摂津国に接した畿内の縁辺地に位置し、この”赤松山“からは、東に五畿内(※)への海上の西口である明石大門の向うに和泉国を見通せ、南に淡路島を正面に畿内と九州を結ぶ海上交通路の明石海峡と陸上交通路の山陽道(後の西国街道)を見下ろせ、西に播磨灘、北に印南野台地の東端を見渡せる処であった。
※五畿内 都に近い五つの国々(山城 国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)をさす呼称
このような地理的特徴が、大坂の陣から間もない江戸前期の1618年(元和4)に、西国大名を牽制する城としての明石城の築城場所として選ばれ、人麿社・月照寺が現在地に移転することとなるのである。
時の要請による移転は是非もなしのことであったろうが、人麿社・月照寺の現在地への遷宮は、新殿の竣工を待ってからの1622年(元和8)のことで、初代藩主小笠原忠政が船下城から明石城に移ってから三年後、本丸の四つの櫓が完成してから一年後のことであった。
移転した処は、永井荷風の日記である『断腸亭日乗』の1945年(昭和20)6月初八日に「…、天主台の跡に立ち眼下に市街及江湾を眺む、…(中略)…神社に鄰して月照寺といふ寺あり、…(中略)…、海湾の眺望城址の公園に劣らず、…」と記されているように、城址からの情景とあまり変わらない眺望であった。
このような場所を移転先としたのは、「時の住僧が、赤松山と同じような情景を見渡せ、日々”海難救済、海上安全を祈願“できる処を替地として選んだ」と伝えられており、次の不思議にもつながっている”船乗十一面観世音菩薩“を観音堂に安置していることを最も重きに置いての決定であったのであろう。そして、この決定が、明治に入って、日本標準時・東経135度子午線の通る場所となるのである。


二つ目の不思議
 二つ目の不思議は、”人麿“を祀ったことである。
創建から三四半世紀が経った平安前期の887年(仁和3)、時の住僧覚正がこの地(赤松山)に人麿の神霊が留まるを感得し、58代光孝天皇に大和国柿本寺より”船乗十一面観世音菩薩“を勧請し、寺中の海を一望に臨める場所に観音堂を設けて安置し、海難救済、海上安全を祈り、同時に、寺内に”人麿“の祠堂を建て、寺の鎮守となしたことである。この時”楊柳寺“を”月照寺“に改称している。
これが明石における「人麿社」の起源であり、この「人麿社」が、後々、寺社の興隆に大きく貢献していくことになる。そして、この過程の中の一つが子午線上の大梵鐘へとつながっていくこととなるのである。というのは、月照寺が”人麿“を祀った頃には既に万葉歌人の優れた一人(「山柿の門」)として崇敬されていたが、905年(延喜5)に奏上された「古今和歌集仮名序」では「歌の聖」と称揚され、1118年(元永元)に始まった「人丸影供」を契機に更なる尊崇・神格化が進み「歌の神」へと変容していったからである。
人麿社・月照寺と藩主との関係についていえば、このように神格化されていく”人麿“を祀っていた「人麿社」を城の鎮守として残し、遷宮後約160年間ほど城内でも護るとともに、初代を始め多くの藩主は、常燈堂や燈籠堂の建立、人麿社の社殿の総修理、石鳥居、参道等の新設など、人麿社の興隆に意を用いた。中でも東経135度子午線と密接に関係していく建物についていえば、1709年(宝永6)に9代藩主松平直常により再興された鐘楼堂である。
 この鐘楼堂は、1804年(文化元)刊の「播州名所巡覧図絵」に「人丸」の図画にも描かれており、位置からすると、現在の鐘楼近くに建てられていたと推測される。


子午線大梵鐘の由緒碑「悠久のモノリス」
石版(モノリス)は二つに分離 上の石版は浮遊しています。
波状の切断面は研磨され、千年の刻(とき)「悠久」を表現しています。


三つ目の不思議
三つ目の不思議は、”グリニッジ天文台を通る子午線が経度0度の子午線となった“ことである。
近代に入って鉄道網が発達し、より速く広範な移動が可能となり、移動者にとっては目的地に着くたびに各都市・各地域で定めていた時刻(地方時)に合わなければならず、都度の時計合わせが面倒になっていた。日本においても、鉄道が走り始めた明治初期には、東京始点の鉄道は東京時刻で、京阪神の列車は大阪時刻で運行されていた。
この不便を解消するため、万国唯一の標準時を定める基準(=本初子午線)を定めようと、1884年(明治17)に米国ワシントンD.C.で「国際子午線会議」を開かれ、「グリニッジ天文台を通る子午線が経度0度の子午線とすること」が決められた。そして、各国はこれを基に経度が15度隔てる毎に一時間ずつの時差を持つ時刻を基本とした標準時を定めていったのである。日本においては、1886年(明治19)「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」の勅令が公布された。これにより、月照寺は、日本標準時の子午線(東経135度)を跨がって位置することとなったのである。

四つ目の不思議
 1943年(昭和18)、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦局の激化と武器の生産に必要な物資の不足を補うため、「金属類回収令」の勅令により、月照寺も梵鐘等を供出した。梵鐘の重量は480貫(1.8t)であった。
大変な時代の勅令であったのであろうが、終戦後、年を重ねるごとに失われた梵音の復活を望む声が大きくなり、このことが東経135度子午線上に吊り下げられる大梵鐘につながっていくことになるのである。

五つ目の不思議
 1951年(昭和26)の”標準時子午線の再観測“である。
再観測への契機の一つは、「子午線標示柱」頭部のトンボが、空襲時の爆風で飛ばされていたことである。この標示柱は、1928年(昭和3)の観測に基づき、月照寺の本堂前の石段東脇に設置されていたもので、理科の教材として、また観光資源として広く知られ、親しまれてきていた。このことから、再建に向け、1950年(昭和25)に日本中央時子午線標識建設期成会(総裁 県知事)が発足し、翌年、標準時子午線の再観測が実施されたのである。再観測の結果、位置は石段脇から11.1メートル東と判り、1956年(昭和31)に新しい場所に移設された。丁度、鐘楼堂跡の南側辺りであった。1200年程の”時の流れ“の中で起こったこのような五つの不思議な禍福を経て、1978年(昭和53)4月、鐘楼は東経135度子午線を跨がって鐘楼堂跡近くに再建され、梵鐘は”大梵鐘“となって子午線上に吊り下げられた。総額2600万円であった。
このような歴史を辿って再鋳された梵鐘を2017年(平成29)に”子午線大梵鐘“と命名し、併せて鐘楼の舞台と前の参道を横断する”子午線LEDライン“を135度上に敷設するとともに、『子午線大梵鐘』の標柱を鐘楼前に、『子午線大梵鐘の由緒』などを刻んだ碑を参道東に設置した。三年をかけての一連の整備であった。


床に子午線LEDがライン走っています

=最後に=
創建時以来の禍福の不思議が積み重なり、当山の梵鐘は、日本で唯一、東経135度上に吊り下げられています。この”転禍為福の子午線大梵鐘“について末永く語り継げられるように、この度、石柱や碑などを整備いたしました。これも偏に檀信徒の皆様の日頃のご協力とご尽力の賜物と感謝申し上げる次第でございます。




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