”亀の水“と言われる前は

 元禄12年(1699)のことである。
月照寺や人丸社の西参道が竣工したとき、手などを清めるために、参道入り口に竹筒で湧き出る水を引き、大きな甕(かめ)(=手水鉢(ちょうずばち))を据えた。
これが「亀の水」と言われる前の姿である。
この水(=手水(ちょうず))は清水(せいすい)で、海辺の井戸のように塩分が無く、また他の市中の井戸のように金気くささも無く、いわば「おいしい水」であった。
このため手水鉢の場は、桶(おけ)で米をといだり野菜を洗ったり、盥(たらい)で洗濯したり、汲んで家に持ち帰ったりなど、「生活の場」としても賑わっていたという。
このようなこともあってか、甕の手水鉢は、しょっちゅう壊れていたといわれている。

”亀の水“と言われ出したのは

 享保4年(1719)のことである。
常陸国(ひたちのくに=(現)茨城県)の人・江戸の目明しの飯塚宣政(のぶまさ)が、江戸から悪人を追って、浪速、播磨へとやってきた。どうしても捕えられない。そこで人丸社に詣で、願をかけた。すると間もなくして願いが叶い、悪人を捕まえることができた。
後日、祈願成就の御礼にと訪れ、入山前の清めをしようとすると、甕が壊れていた。
これを目にした宣政は、「嘆かわしい」と思い、「割れない石の手水鉢」を寄進した。
そしてその年の12月、石の手水鉢への吐水口(とすいこう)に”亀“が据えられ、今の姿へとなる。
以来、誰とはなしに、親しみと愛着を持って「亀の水」と呼ばれるようになり、「長寿の水」といわれるようになった。
今日も”亀“の口からは絶え間なく清水が流れ出て、「常陸國/飯塚氏/宣政」と刻まれている手水鉢が受け続けている。
この”亀“を据えたのは、寛文4年(1664)に建立されていた「播州明石浦柿本大夫祠堂碑」を背負っている”亀“を模したのであろう。通称「亀の碑」である。
なお、「亀の水」の”亀“は、長寿を象徴する蓑(みの)のような尻尾を持つ”蓑亀(みのがめ)“に似ているが、耳がとがっている。
実はこの”亀“、「贔屓(ひいき)」という中国の”伝説上の神獣“で、龍から生まれた九頭の子の一つで、「重きを負うこと」とか「文章の読み書きすること」とかを好むといわれているものである。

”亀の水“の今は

 手水鉢を覆う「手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ)」は、平成2年(1990)に、「手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ)」の上屋根の吹き替えと”亀“を囲う柵を新しくした。
この上屋根は、平成7年(1995)1月の阪神淡路大震災により損壊したが、6月に銅板に吹き替え、また幾度となく盗難に遭った浄財箱を石柱の物にし、今の「亀の水」の姿となっている。
大震災のときも止まること無く、今日も「おいしい水」が湧き続けている「亀の水」は、時間帯によっては順番待ちをしながら、数個のポリタンクや5・6本のペットボトルに「おいしい水」を一杯にし、手押し車やバイクや自転車などで持ち帰る人が訪れている風景があり、現代版「生活の場」となっている。
このような「亀の水」を大切に維持し続けられるように、浄財も足しにしながら、定期的に水質検査と洗浄をしている。
また、「亀の水」は、明石市の遺跡となっているとともに、環境省の「各自治体が考える”代表的な湧水“」の一つとして掲載されている。

《終わりにあたって》

「”亀の水“物語」は、「月照寺寺伝(第5版)」、「明石名勝巡覧」(橋本海関著)、「あかし昔ばなし」(明石総局編)、「タルホ大阪・明石年代記」(稲垣足穂著)、「明石 郷土の記憶‐あかし 文化遺産」(明石市立図書館編)などを参照・引用しながら、月照寺護持会のある者がまとめたものである。






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